![]() 佐伯年詩雄会長 |
〜50周年記念佐伯会長挨拶〜 |
本会の来し方行く末、簡単に申しあげますと、本会の思想と行動でございますが、それは、ご承知のように、竹之下休蔵を抜きにして語ることはできません。竹之下は、敗戦の混乱期の中で、文部省視学官として戦後教育の再建に貢献されましたが、その中でもとりわけ、占領軍の統一政策と日本の固有性の折衝の中間点に立ちまして、日本型の民主主義を教育に於いてどう実現するかということで、本当に尽力なさいました。昭和28年に、最後の参考資料になりました、小学校の体育科学習指導要領を作られまして、その後、自らの考えと理論を実践の場で検証すべく、在野に降りられて、小中学校の新しい学習指導の研究に携わりました。
竹之下は、昭和26年神奈川県の太田小学校を皮切りに、戦後教育の民主化と科学化の動向の中で、体育が何をなすべきかをつねに命題として取り上げられ、寝食を忘れてこの運動に取り組まれたわけでございます。具体的なテーマは、教師中心の一斉指導から、どう離陸するか。これは同時に従来型の徒手体操を中心とする体育の内容から、どういうふうにスポーツに切り替えるか、そういうことでもございましたが、それはまた同時に、子どもたちの学習の意欲と、学習の力と、助け合い・支え合いのエネルギーを授業の中にどう生かすかという問題でもありました。その間、教育の民主化といいましても、いくつかのモデルが世界にはあったわけです。とりわけアメリカ型のモデルとソビエト型のモデルは、同じグループ学習というコンセプトを使っても、非常に大きく対立しておりました。その中で竹之下は、「いかなるイデオロギーにも関わりを持たない」「どのような権力にもおもねない」、この二つを非常に大きな原則といたしました。こうして、竹之下流のグループ学習研究が進められました。
朝鮮動乱を契機とする日本の占領政策の右傾化。これに連なる教育行政の右傾化。こういう状況の中で日本型民主主義の教育における実践的研究は、体育の授業研究に焦点化されることになりました。従いまして、体育の専科でない多くの志ある方々が、竹之下のグループ学習に参集し、そして昭和32年に80名の仲間を集めて、はじめて、この、本会の元祖であります、第1回全国体育学習研究協議会を神奈川県の真鶴で開催いたしたわけでございます。どのような権力にもおもねず、どのようなイデオロギーにもこだわらない、自由な立場で、しかし、児童中心、それと本当に実践的に意味がある研究。この二つを柱にして研究を進めます竹之下先生のもとに、多くの志を共にする仲間が集って、本会は瞬く間に全国的な組織に成長していったわけでございます。
普段着の授業、誰もが取り組める授業、そして、まあ、簡単に申し上げますと、B4(の用紙)1枚で書き終えられる学習指導案。この言葉に象徴されておりますように、けっして強要したり、無理を求めることなく、全く自然体のスタイルで、どの先生も子どもの視線に立って、できる限りのよい授業を作るというその姿勢が、その後も本会の一つの大きな流れとなって、引き継がれているわけでございます。
本会のあゆみにつきましては、今日、多くの方々のお手元に、お配りしております「ふだん着の体育を求めて〜全国体育学習研究会50年周年記念誌〜」という本の中に、収められておりますので、また、どうかご覧いただきたいと思います。私たちの仲間である、八代勉先生が大変ご苦労をなさって、この記念誌を編纂してくださいました。
本会の展開を大きく分けますと、その中に書かれておりますが、大きく二分されます。もうご承知だと思いますが、グループ学習の時代、そして楽しい体育の時代でございます。まあ、だいたいそれぞれ25年ずつぐらいですが、昭和30年代の後期からこの全国大会を契機にして、全国各地に体育の学習を、少人数の子どもたちのグループの共同同時学習として展開されていく、こういう方式がかなり広まってきました。
そしてある意味で言うと、学習形態としてのグループ学習のスタイルが、ある完成型を作れるようになりました。それと同時に、グループ学習それ自体、研究の内容としては著しく魅力を失っていくことになりました。むしろ、ある種の画一的なグループ学習の運営、グループの作り方、こういうものが一人歩きする状態になってゆき、ある意味で言うと研究の行き詰まりに、昭和40年代の始め頃から陥るようになりました。私もその時期から、この研究会に参加しておりますので、その状況は体験的にも承知しております。
その頃、本会の創始者であります竹之下は、プレイ論の導入によって違った意味での学習内容の捉え方、ある意味の授業研究の転換をはかったわけでございます。もちろんグループ学習の時代にも学習形態論から学習内容論への移行、これが目されて、そして、ちょうど昭和30年代の後半から40年代後半にかけて学年別技術というコンセプトを中心に技術・ルール・マナーという三つの文化財的な内容を学習内容として取り上げていくという研究が、かなり、本会でも熱心に行われました。懐かしい響きがいたします。
しかし竹之下はその方法論に限界を感じまして、プレイの導入によるもっとダイナミックな学習内容の転換をはかることを考えました。それは、まあ、簡単に申し上げますと体育の学習を運動手段論から、運動目的論へ切り替えるという、非常に大胆な発想だったわけでございます。この考え方を方法化するのに、おそらく5〜6年、先生ご自身の中でもかかったと思いますが、この考え方をベースにして、新しい全体研の方向として、楽しい体育という新しいコンセプトが出されたわけです。ちょうど昭和54年ですね。永島先生が研究委員長の時に、東京大会「で正しい豊かな体育学習」から「楽しい体育」へと、本会の運動の方向性をシフトする大きな変化をもたらしました。
しかし、ご承知のようにずっと、多くの方々が、本会の最も大きな知的資産でありますグループ学習、これをなかなか離れることはできませんでした。ある意味でいうと、楽しい体育への54年、55年、56年の変換の3年間は本会の大変大きな混乱の時期でもありました。グループ学習のベテランが、本会の組織では基本的には主導権を持っておりましたし、そして、多くの方々もグループ学習に惹かれて、その民主的な人間形成という魅力に惹かれてですね、本会に参加し賛同し、研究をしてきたから、それは、ある意味では、いたしかたがなかったところがあります。私も、楽しい体育論の主張者として色々な方々とお話しする機会をたくさん持ちましたが、なかなかご理解をいただくのに苦労をいたしました。
そして、どうなるかなあと思っていたまさにそのとき、昭和56年の大会でございますが、本日講師としてご来場いただきました友添先生もおっしゃっていましたが、竹之下先生の最後のメッセージは、「全体研の保守と革新」というメッセージでした。このメッセージの中で、グループ学習から楽しい体育への転換が、はじめて会としては完成したというわけです。その保守と革新、すでにグループ学習は形骸化し、保守化した。それは当たり前の方法となった。そして、ある意味で言うと、それ故に革新的な魅力を失いつつあった。しかしこれは、グループ学習がだめになったということではありません。研究のテーマとしては、残念ながら、もはや、やるべきことではない。そういうようなことで、そして全体研はまさに、自らのその保守性を脱して、革新の道を歩まない限り、生き残っていく、あるいは生き続ける価値はないと言うことだったと思います。
そしてもう一つ深く考えてみると、それは、楽しい体育が持っている潜在的な保守性、それは楽しさと現状肯定性との関係。この関係と常に対峙しないと、楽しい体育は保守的なものに絡め取られていくという警告でもあったと思います。そのことがありましてから、楽しい体育論は、ある意味で言うとブームとなり、本会のリーダーシップと時代の要請、時代の風を受けて、瞬く間に全国に広がることができました。
しかし先ほどのシンポジウムでも指摘されておりますように、めあて学習という一つの官製スタイルに集約されることによって、画一的な方法論が全国に広がって行きました。楽しい体育が生み出した思想は、深く耕されて根付くことなく、こうした画一化に対して、当然、体育の中に潜在的に存在します「人間作り・人作り」のロマンチシズム、それから、「体力や技術づくり」のテクニシズムの二つの両側からの批判を受けることになります。その批判は現状でもまだ続いておりますが。
しかし、楽しい体育はけっしてそのような狭い視野に対して、戦えないわけではないし、楽しい体育が掲げております、基本的な考え方は、はるかにそれを超える可能性を持っているわけです。私の考えでは、楽しい体育は世界に於いてはじめて、規律訓練型の体育を脱する、離陸する最初の試みであります。そのことを何よりも誇りに思います。そして今、スポーツ教育批判、それは大きな国際的な潮流ですが、その流れの中で「楽しい体育は失敗であった」という声を聞きます。しかしまだ、そういう意味では、楽しい体育は本当には試されていない。25年の時間を経てはおりますがまだ、本格的な意味での成果を生み出しておりません。そしてまた、それだけの大きな可能性を楽しい体育は抱えているというふうに考えております。
総体的に言えば、まずそれは産業社会、国民国家という2本の柱に支えられて作られた近代体育の規律訓練性を本格的な意味で抜け出ようとする、最初の体育世界内部からの努力の現れなのです。今、ご承知のように、体育の危機が、総じて言えば近代教育全体の危機が叫ばれております。体育の危機は、例えば時間数の削減という形で、制度の危機として表現されています。しかし本当の危機は、この制度の危機に対して、制度的保守化によって応えること、まさにそこにあります。楽しい体育は決してそのような道はとりません。楽しい体育は、むしろ今こそ、体育における思想が試される、その時期だというふうに考えます。体育が戦後一貫して求めてきた体育の自立性、自主性、教科としてこのことを確立するためには、体育はなんといってもその規律訓練という歴史から、自らを解き放たなければなりません。その試みが私たちの研究会、全国体育学習研究会の基本的な使命であります。そしてそれこそが、創始者である竹之下とその志を受け継いで参りました諸先輩のこれまでの努力に対し、私たちが応えるべき道であるというふうに考えております。
ご承知のようにスポーツ教育の重要性は間違いなく、ますます大きくなります。しかしただ、そのスポーツ教育のイメージが、近代スポーツのフレームにおさまらないという、そこに私たちが常に対決しなければならない課題があります。そして、イノベーションがますます更新し、リアリティーとバーチャルの境目がますます薄くなる、この今の時代に、身体における学びの共同性という、体育の独自性こそが、小さな官に対抗する豊かな公共性を、下から作りあげていく最も重要な場として、最も望まれる公教育の場として、評価されるわけです。そういう意味で、未完のプロジェクトという言葉を遣いますが、楽しい体育の可能性は、まだこれから拓かれなければならないものというふうに考えています。
末尾になりますが、創始者である竹之下先生をはじめ、2代目の松田岩男先生、3代目の宇土正彦先生、4代目矢野久英先生、そして5代目の嘉戸脩先生も他界されました。それから、敬愛しておりました、水谷光先生の笑顔もありません。今日、この日を迎えたことをどのように喜んでいただけるかわかりませんが、私たちの勝手な思いこみながら、おそらく、しっかりと見つめていただけているということは間違いないでしょう。もちろんその他にも、現場で苦労なさり、本大会の実行委員を務められ、ご尽力いただいた方の多くも他界されていると思います。50年の歴史というのはそういう意味では、多くの犠牲の上に立った年月であり、今日はその50年目の一日であり、私情をはさんで申し上げれば、本当に感無量であります。
しかし、今日のこの日をですね、51年目への一つの礎として、そして必要であるならばもう半世紀、本会は日本の教育のために、日本の子どもたちのために、そして、世界に拓かれた日本の社会のために役に立つ限り、是非若い人たちの努力を糧にして、歩み続けて行きたいと思います。

