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「ねらい」も「めあて」も,行為(意図的な営みや活動)が,その達成や成就をめざすこと・ものを意味する言葉である。したがって,基本的には,「ねらい」も「めあて」も「目的」あるいは「目標」と同義である。しかし,組織的な行為では,最終的な目的を達成するために幾つかの下位の目的を立て,目的を段階的に構成することが普通であるから,目的的概念の階層化を必要とする。「目的−目標−ねらい−めあて」は,そのような階層の1つである。この視点から見れば,「ねらい・めあて」は,より高次の目的・目標を実現するための下位の行為において達成・成就することが望まれること・ものであり,「最も直接的で具体的な行為の目的・目標」であるといえる。こうした使い方の例は,「教育の目的−教科の目標−単元のねらい−学習活動のめあて」というような用い方に示されよう。 ところで「学習」は,必ずしも意図的な行為ではなく,むしろあらゆる行為に内在する現象である。つまり人間は,仕事においても遊びにおいても,潜在的に学習しているのである。こうした潜在的学習可能性の非意図的な発現が,随伴学習や偶発学習である。しかし,学校は学習のための社会組織であり,授業は意図的・計画的に学習を組織するものである。したがって,授業を具体化する単元学習には,潜在的な随伴学習や偶発学習等を期待する自然/自由学習とは異なって,学習可能性を最大限に引き出し,それを社会的・文化的な意味・価値に誘い・導く明確な「意図性と目的・目標性」が求められる。「学習のねらい・めあて」は,こうした単元における学習の意図と目的・目標を学習する子どもの立場から表し,学習者自らがその達成と成就を求めること・ものとして表現しようとするものである。 字義から言えば「学習の目的・目標=学習のねらい・めあて」であるが,楽しい体育論が「目的・目標」ではなく「ねらい・めあて」を好んで使うことには次のような理由がある。 その第一は,学習活動における学習者の「目的性+リアリティ」を重視することである。「目的・目標」の概念は,一般性・抽象性とともに,達成・成就への距離感が大きい。それに比べ,「ねらい・めあて」は,子どもたちが主体的に定めることの直接性・具体性とともに,高い実現可能性を示唆する。ここに,楽しい体育論における「児童中心主義」が示されている。第二の理由は,「目的・目標」概念は,達成・成就すること・ものに関する望ましさが外発的なニュアンスを帯びているのに対して,「ねらい・めあて」概念は内発的なニュアンスを有していることにある。ここに,楽しい体育論の内発的動機付け重視の立場が現れている。 第三の理由は,「目的・目標」概念が学習の「結果」への志向性をもつのに対して,「ねらい・めあて」概念は,学習の「過程」への関心を強調することにある。これは,楽しい体育論の基本的性格にかかわるきわめて重要な意味をもっている。楽しい体育論は,特性に基づいた「運動の楽しみ」を学習する授業を組織しようとする。そして,運動の楽しみの学習は,主として,学習の結果としてではなく運動学習の過程そのものに内在する。したがって楽しい体育論における学習の目的・目標の達成は,学習の結果として望まれるものであるよりは,学習の過程において求められ,学習過程そのものに内在することになる。運動の特性の学習は,特性を内在する運動を学習することであり,それゆえ「運動の楽しみ=運動の機能的特性を求めること=特性を内在する運動の学習」となる。したがって,運動の機能的特性を重視する楽しい体育論では,「学習のねらい=学習の内容」となるのである。 こうして見ると,「学習のねらい・めあて」概念は,運動の機能的特性を中心として学習を組織する楽しい体育論の授業構成論における重要な基本的特徴−学習過程の重視−を示すものと言えよう。これはまた,楽しい体育論が体育学習を生涯スポーツへの連続であるとともに,その一過程としてとらえることにつながるのである。(佐伯年詩雄) |